結論:EVは「事業の値段」、株式価値は「株主が受け取る金額のもと」

M&Aの価格の話で最初につまずくのが、**企業価値(EV:Enterprise Value)と株式価値(Equity Value)**の混同です。

  • 企業価値(EV):借入金で調達した部分も含めた、事業全体の値段。EBITDA倍率法やDCF法で最初に算出されるのはこちら
  • 株式価値:EVから借入金などを差し引いた、株主に帰属する価値。株式譲渡の売買代金のベースになるのはこちら

両者は次の式でつながります。

株式価値 = 企業価値(EV) − ネットデット ネットデット = 有利子負債 − 余剰現預金(+負債みなし項目 − 資産みなし項目)

なぜ差し引くのか。買い手は会社を買うと、その会社の借入金も実質的に引き受けることになります。「事業全体に5億円の価値がある」と評価しても、借入金が2億円あれば、株主に払えるのは残りの部分だけです。逆に、事業に使っていない余剰の現預金があれば、それは株主のものとして上乗せされます。

ここまでは多くの記事に書いてあります。本記事の主題はその先、「ネットデットに何を入れるか」で株式価値が数千万円単位で動くという実務です。

通し数値例:EV5億円の会社の株式価値はいくらか

ステップ1:EVを算出する

EBITDA 100,000千円の会社に、業種の目安倍率5.0倍を適用します(倍率の目安はEBITDA倍率の業種別一覧を参照)。

EV = 100,000千円 × 5.0倍 = 500,000千円

ステップ2:単純なブリッジ(借入金と現預金だけ)

項目金額
企業価値(EV)500,000千円
− 有利子負債(銀行借入:短期50,000+長期150,000)△200,000千円
+ 現預金(残高の全額)+80,000千円
株式価値(単純計算)380,000千円

仲介会社の初期提示や、簡易な自己試算はここで止まることが多いです。

ステップ3:DDで見つかる調整を反映する

財務デューデリジェンスで貸借対照表の中身を精査すると、次のような調整が出てきます。

項目金額理由
企業価値(EV)500,000千円
− 有利子負債△200,000千円銀行借入
+ 余剰現預金+50,000千円現預金80,000のうち、日常の運転に必要な30,000は差し引く
− 負債みなし項目:役員借入金△20,000千円無利子でも返済が必要な実質的な借入
− 負債みなし項目:退職給付債務の積立不足△15,000千円将来必ず支払う債務が簿外
− 負債みなし項目:未払残業代(見積)△10,000千円労務DDで判明した遡及リスク
− 負債みなし項目:リース債務△5,000千円実質的な借入と同じ
+ 資産みなし項目:保険積立金の解約返戻金+20,000千円事業に不要で換金できる
+ 資産みなし項目:遊休不動産+10,000千円事業に使っていない資産
株式価値(調整後)330,000千円

単純計算の380,000千円から50,000千円下がりました。「仲介会社に聞いた価格と、買い手のDD後の提示価格が違う」という売り手の不満の多くは、このステップ3で生じています。

有利子負債に何を含めるか

まず「有利子負債」の範囲です。名前に「有利子」とありますが、実務では返済義務のある資金調達を広くとらえます。

ネットデットに含める(有利子負債・負債みなし)含めない(運転資本として扱う)
短期借入金・長期借入金・当座貸越買掛金・支払手形(通常の営業取引)
社債・私募債未払金・未払費用(通常の営業取引)
割賦未払金・リース債務前受金(通常の営業取引)
役員・株主からの借入金(無利子でも)賞与引当金(毎期の営業費用として回転するもの)

見分け方は「事業を回すために毎期自然に発生・消滅する債務か(運転資本)」「返済のために別途キャッシュが必要な債務か(ネットデット)」です。買掛金を借入金と同列に引いてしまうと、EBITDAを生み出す事業の一部を二重に差し引くことになります。

余剰現預金:現預金の全額は足せない

現預金80,000千円のうち、事業を止めずに回すために必要な最低残高は買い手に引き渡す必要があり、株主のものとして上乗せはできません。この「必要運転資金」を差し引いた残りが余剰現預金です。

必要運転資金の目安は業種や入金サイクルで異なり、月商の1〜2か月分を置くこともありますが、個別の判断が必要です。ほかにも次の点を確認します。

  • 拘束性預金:借入の担保に入っている定期預金は自由に使えない
  • 期末の一時的な入金:決算日直前の大口入金で膨らんだ残高は、翌月の支払いで消える
  • 納税・賞与の資金:直後に出ていく資金は余剰ではない

「現預金が多い会社は高く売れる」は半分正しく、余剰と認められる部分だけが価格に乗ります。

負債みなし項目(Debt-like)と資産みなし項目(Cash-like)

ステップ3の核心です。貸借対照表上は借入金でも現預金でもないのに、実質的に借入金と同じまたは現預金と同じとみなして調整する項目があります。

負債みなし項目(Debt-like Items)

項目なぜ負債とみなすか
退職給付債務の積立不足将来確実に支払う。中小企業では簿外のことが多い
未払残業代・未払社会保険料労務DDで判明する遡及リスク。買い手が承継後に負担する
過年度の未払税金・売却に起因する税金対象会社が負担する確定した支出
訴訟・保証債務などの偶発債務発生確率と金額を見積もって反映
未払配当金株主に出ていく確定した資金
先送りされた設備更新(繰延メンテナンス)承継直後に買い手が支出を強いられる
役員借入金返済が前提なら借入金と同じ

資産みなし項目(Cash-like Items)

項目なぜ現預金とみなすか
保険積立金の解約返戻金事業に不要で、解約すれば現金化できる
遊休不動産・投資有価証券事業運営に使っていない非事業用資産
貸付金(回収見込みのあるもの)現金に戻る
敷金・保証金返還される部分(ただし事業継続に必要なら含めない)

判断の軸は2つ

  1. 事業を回すために必要か:必要なら運転資本・事業用資産としてEV側の評価に含まれている。不要なら調整項目
  2. EBITDAに既に反映されているか:たとえばリース料を費用として控除したEBITDAで評価しているなら、リース債務をネットデットに含めると二重控除になります。EV側とネットデット側で整合をとる必要があります

こうした項目は、財務DDチェックリストの貸借対照表・簿外債務の項目と重なります。買い手のDDは、いわば「ネットデットに入れる項目を探す作業」でもあります。

契約ではどう反映されるか:クロージング調整

株式譲渡契約では、EVベースで合意した価格を、クロージング日(引渡日)時点のネットデットと運転資本で最終調整する方式(完成勘定方式・クロージング調整)がよく使われます。基準日の貸借対照表で固定し、その後の変動を調整しないロックドボックス方式もあります。

いずれの方式でも、契約書には「ネットデットの定義」「運転資本の定義」を明記します。何を負債みなし項目に含めるかは契約上の定義の問題であり、ここが交渉の実質的な争点になります。売り手が「借入金は2億円しかない」と考えていても、契約上のネットデット定義に役員借入金・未払残業代・退職給付債務が含まれていれば、株式価値はその分だけ下がります。

ツールで試算するときの入力の考え方

ValSimの企業価値算定ツールでは、EBITDA倍率法で算出したEVから株式価値へ調整する欄として、有利子負債・余剰現預金・その他Debt-like・その他Cash-likeを用意しています。ツール上は有利子負債とDebt-likeをマイナスの値で入力する仕様です。本記事の数値例なら、有利子負債欄に−200,000、余剰現預金に50,000、その他Debt-like欄に−50,000(役員借入金20,000+退職給付15,000+未払残業代10,000+リース債務5,000の合計)、その他Cash-likeに30,000を入力すると、株式価値330,000千円が得られます。

個人株主なら、そこから株式譲渡の税金(20.315%)を差し引いた手取りが最終的な関心事です。手取りの考え方は会社売却の手取り計算の記事をご覧ください。

よくある質問

Q. EVはプラスなのに株式価値がマイナスになることはありますか?

A. あります。ネットデットがEVを上回る場合、つまり事業の価値以上に借入金・実質債務がある状態です。株式価値がゼロ以下なら株式譲渡で対価を受け取ることは難しく、事業譲渡や会社分割で事業だけを承継する形が検討されます(赤字・債務超過会社のM&A価格の記事)。

Q. 現預金が多い会社は、その分だけ高く売れますか?

A. 余剰と認められる部分だけが上乗せされます。日常の運転に必要な残高、担保に入った定期預金、直後の納税・賞与資金は余剰ではありません。

Q. 社長からの借入金(役員借入金)はどう扱われますか?

A. 返済を前提とするなら有利子負債と同様にネットデットに含めます。売却時に社長が債権放棄する、または対価の一部として返済を受ける、といった整理が交渉で行われます。放棄する場合は会社側に債務免除益が生じる点に注意が必要です。

Q. EV/EBITDA倍率とNet Debt/EBITDA倍率は何が違いますか?

A. 前者は「事業の値段がEBITDAの何年分か」という価格のものさし、後者は「純有利子負債をEBITDA何年分で返せるか」という返済能力のものさしです。詳しくはEV/EBITDA倍率とはの記事で解説しています。

まとめ:価格の議論は「EVか株式価値か」と「ネットデットの中身」を先に揃える

  • EVは事業全体の値段、株式価値は株主が受け取る金額のもと。株式価値=EV−ネットデット
  • ネットデット=有利子負債−余剰現預金。現預金は余剰分だけ足す
  • 貸借対照表に借入金として載っていなくても、退職給付の積立不足・未払残業代・役員借入金・リース債務などは負債みなし項目として差し引かれる。逆に保険の解約返戻金・遊休資産は資産みなし項目として足す
  • 買掛金など通常の営業債務は運転資本であり、ネットデットには入れない
  • 契約上のネットデットの定義が最終価格を決める。DD前の提示価格とDD後の価格の差はここで生じる

ValSimの無料ツールなら、EBITDA倍率法によるEVの算出から、有利子負債・余剰現預金・Debt-like・Cash-likeの入力による株式価値への調整、株式譲渡の税引後手取りまでを一度に試算できます。仲介会社の提示価格が「EVなのか株式価値なのか」「ネットデットに何を入れているのか」を確認する材料としてご活用ください。提示価格の妥当性を第三者に確認したい場合はM&Aのセカンドオピニオンの記事も参考になります。


※ 本記事は2026年9月3日に公開しています(筆者は2026年6月24日付で税理士登録)。

※ 本記事は一般的な考え方の解説であり、個別案件でどの項目をネットデットに含めるかは、契約上の定義・DDの結果・買い手との交渉により変わります。

※ 本記事およびValSimの各ツールは、概算・教育目的の簡易モデル(固定実効税率30%・業種別の目安倍率等)に基づくものであり、実際のM&A取引価格や正式な株式価値算定の結果とは異なります。記事中の倍率・相場・料率は更新時点の目安であり、個別案件では前提により大きく異なります。実際の意思決定にあたっては、公認会計士・税理士等の専門家にご相談ください。