中小企業のM&A、売却価格の「相場」はあるのか
「自分の会社を売ったらいくらになるのか」——M&Aを検討する経営者が最初に知りたいことです。
ネットで調べると「のれん=営業利益の3〜5年分」「年商の1〜2倍」といった情報が出てきます。しかし、これらは非常に粗い目安であり、M&Aの実務で使われる手法とは異なります。
「のれん=利益の3〜5年分」の問題点
この年買法(年倍法)は「時価純資産+営業利益×年数(通常3〜5年)」で売却価格を見積もる簡便法で、実務で広く使われてきたといわれます。ただし、以下の問題があります:
- 業種の違いを反映しない(IT企業と飲食店で同じ倍率は不合理)
- 成長性を考慮しない(毎年10%成長する企業と横ばいの企業が同じ評価)
- 規模の影響を無視する(売上1億円と50億円で同じ計算式)
- 資本構成を反映しない(借入が多い会社も少ない会社も同じ)
M&Aの実務で使われる手法:EBITDA倍率法
M&Aの実務で標準的に用いられる手法の一つがEBITDA倍率法です。
企業価値(EV) = EBITDA × 業種別倍率
EBITDAは「営業利益+減価償却費」で、事業が生み出すキャッシュフローの近似値です。これに業種ごとの標準的な倍率を掛けて企業価値を算出します。
企業価値(EV)と実際の売却代金(株式価値)は違う
EBITDA倍率法で算出されるのは企業価値(EV: Enterprise Value)であり、株主が実際に受け取る株式価値(=売却代金)とは異なります。両者は、会社が抱える有利子負債と余剰現預金の分だけズレます。
株式価値 = EV − 有利子負債 + 余剰現預金
例えばEVが3億円と算出された会社でも、銀行借入が1億円あり余剰現預金が2,000万円であれば、株主が受け取る株式価値は「3億円 − 1億円 + 2,000万円 = 2億2,000万円」です。借入が多い会社ほどEVと株式価値の差が大きくなるため、EVをそのまま「売却でいくら手元に入るか」と捉えると、実際の手取りを過大に見積もることになります。
この有利子負債・余剰現預金の調整をNet Debt(純有利子負債)調整と呼び、EBITDA倍率法・DCF法のいずれで算定した場合も、実際の売却代金を見積もるうえで欠かせない手続きです。
業種別の売却相場(EBITDA倍率)
以下は、中小企業M&Aで一般的に参照される倍率レンジです。
| 業種 | 低め | 中央値 | 高め | 補足 |
|---|---|---|---|---|
| 製造業 | 5.0x | 7.0x | 9.0x | ニッチトップは高倍率 |
| 小売・飲食 | 4.0x | 6.0x | 8.0x | 立地・ブランド力で差 |
| IT・受託開発 | 5.0x | 7.0x | 10.0x | エンジニア定着率が評価軸 |
| SaaS | 8.0x | 12.0x | 18.0x | ARR成長率で大きく変動 |
| 建設・不動産 | 4.0x | 6.0x | 8.0x | 許認可・技術者の有無 |
| 医療・介護 | 5.0x | 7.0x | 10.0x | 人材確保力がプレミアム |
| 物流・運輸 | 4.0x | 6.0x | 8.0x | 2024年問題で再編加速 |
| 卸売業 | 3.0x | 5.0x | 7.0x | 取引先との関係性が鍵 |
| サービス業 | 5.0x | 7.0x | 10.0x | 属人性の低さがプレミアム |
※ 上場企業の取引水準等を参考にした目安(中小M&Aの実取引はこれより低くなる傾向)。2026年7月時点。実際の倍率は案件・交渉環境によって異なります。
倍率に影響する要因
同じ業種でも倍率が変わる主な要因は以下の通りです。
高い倍率がつくケース:
- 売上が安定的に成長している
- 特定の経営者に依存しない組織体制
- ニッチ市場でのシェアが高い
- ストック型ビジネス(サブスクリプション等)
- 財務データが整備されている
低い倍率になるケース:
- 特定の顧客への依存度が高い(例: 売上の3割超が1社)
- オーナー社長に依存した経営
- 業界全体が縮小トレンド
- 財務データが不十分
- 訴訟・労務リスクがある
正規化EBITDAの重要性
倍率を掛ける「EBITDA」は、そのままのPL数値ではなく**正規化(ノーマライズ)**したものを使うのがM&Aの慣行です。
よくある正規化調整項目:
- オーナーの役員報酬を市場水準に調整(過大 or 過少な場合)
- 一時的な費用の除外(訴訟費用、リストラ費用等)
- 一時的な収入の除外(補助金、保険金等)
- 関連当事者取引の適正化(オーナー企業への割高発注等)
正規化により、EBITDAが数百万〜数千万円変わることは珍しくありません。これが「相場」に幅がある大きな理由の一つです。
まずは自分の会社の「相場感」を掴む
M&Aの売却相場は、業種と収益力で概ね決まります。
まずは直近3期分のPLデータ(売上高・営業利益・減価償却費)を準備して、ValSimで企業価値のレンジを確認してみてください。業種別の倍率が自動適用され、低・中央値・高の3パターンで企業価値が表示されます。
ただしValSimが表示するのは企業価値(EV)ベースのレンジです。実際の売却代金(株式価値)を把握するには、前述のとおり有利子負債・余剰現預金によるNet Debt調整が欠かせません。概算を掴んだ上で、正規化調整とNet Debt調整をふまえた具体的な手取り額を専門家に相談するのが、最も効率的なM&A検討の進め方です。
※ 本記事は2026年7月6日に内容を確認・更新しています(筆者は2026年6月24日付で税理士登録)。
※ 本記事およびValSimの各ツールは、概算・教育目的の簡易モデル(固定実効税率30%・業種別の目安倍率等)に基づくものであり、実際のM&A取引価格や正式な株式価値算定の結果とは異なります。記事中の倍率・相場・料率は更新時点の目安であり、個別案件では前提により大きく異なります。実際の意思決定にあたっては、公認会計士・税理士等の専門家にご相談ください。