マルチプル法とは

マルチプル法(類似企業比較法)は、類似する上場企業の株価指標(マルチプル)を参考に、対象企業の価値を算定する手法です。

考え方はシンプル: 「同じような事業を営む上場企業がEBITDAの8倍で評価されているなら、この会社もEBITDAの8倍程度だろう」

M&Aの実務では、DCF法と並んで最もよく使われる手法です。

主要なマルチプル指標

EV/EBITDA倍率(最もよく使われる)

企業価値(EV)÷ EBITDA

  • 資本構成の影響を排除できる
  • 会計方針(減価償却方法)の違いも吸収
  • M&Aの価格交渉で最も頻繁に参照される

PER(株価収益率)

株価 ÷ 1株あたり純利益

  • 上場企業の株式評価で広く使われる
  • 資本構成(借入の多寡)の影響を受ける
  • 非上場企業のM&Aではあまり使われない

PBR(株価純資産倍率)

株価 ÷ 1株あたり純資産

  • 資産の含み損益を反映しない
  • 銀行・不動産など資産型ビジネスで参照される
  • M&Aの価格交渉ではほとんど使われない

EV/Revenue(PSR)

企業価値(EV)÷ 売上高

  • 赤字企業でも使える
  • SaaS・プラットフォーム型ビジネスの評価に多用
  • 収益性の違いを反映しないのが弱点

※ 厳密には、PSR(株価売上高倍率)=時価総額÷売上高で、株式価値ベースの指標です。本サイト・本記事では簡便的に、売上高倍率で事業全体の価値(EV)を概算する意味(EV/売上高倍率)で「PSR」と表記しています。

EV/EBITDAが最も使われる理由

M&AではEV/EBITDAが事実上の標準指標です。理由は3つ。

1. 企業全体の価値(EV)ベース

PERは株主価値ベースですが、EV/EBITDAは企業全体の価値(株主+債権者)ベースです。M&Aでは買い手が対象会社の有利子負債を実質的に引き受けることになるため、負債込みの企業全体を捉えるEVベースの比較が適切です。

2. 減価償却の影響を排除

EBITDAは減価償却費を加算するため、設備投資のタイミングや償却方法の違いを吸収します。業種が同じでも工場の新旧で利益が変わる問題を回避できます。

3. 税制の影響を排除

各国の法人税率の違いを排除できるため、クロスボーダーM&Aでも使えます。日本国内でも、税効果会計の影響を受けません。

EVから株式価値への変換(ブリッジ)

EV/EBITDA倍率で算出されるのは企業価値(EV)であり、株式の売買価格のベースとなる株式価値(Equity Value)そのものではありません。両者は次の関係にあります。

株式価値 = EV − 有利子負債 + 余剰現預金

(役員借入金などのDebt-like項目、事業に不要な資産などのCash-like項目があれば併せて調整します)

例えば、EV 10億円の会社に有利子負債3億円・余剰現預金1億円があれば、株式価値は 10 − 3 + 1 = 8億円です。「EBITDA×倍率」の金額と実際の株式譲渡価格が食い違う最大の理由がこのブリッジです。ValSimの企業価値算定ツールでは、EVから株式価値への変換を自動計算します。

類似企業の選び方

マルチプル法の精度は、類似企業の選定にかかっています。

ステップ1:ロングリスト(15〜30社)

業種分類(日経中分類やGICS)でスクリーニングします。

ステップ2:ミドルリスト(8〜12社)

以下の基準で絞り込みます:

  • 事業モデルが類似(BtoB/BtoC、ストック/フロー等)
  • 顧客セグメントが近い
  • 地域性(国内市場向け同士等)

ステップ3:ショートリスト(4〜7社)

財務指標で最終絞り込み:

  • 売上規模:対象企業の0.3倍〜3倍
  • EBITDAマージン:±5ポイント以内
  • 成長率:同方向(成長 or 安定 or 縮小)

除外すべき企業:

  • 赤字で倍率が算出不可
  • MBO・TOB予定で株価が歪んでいる
  • 業態転換中で過去データが参考にならない

適用時の調整

類似企業の倍率をそのまま適用するのではなく、以下の調整を行います。

流動性(非流動性)ディスカウント

非上場企業は株式の流動性が低いため、上場企業の倍率から20〜40%程度のディスカウントを適用する例が多く見られます。ただし、この水準はあくまで実務上の目安であり、対象企業の規模・株式の譲渡制限・買い手候補の多寡など、案件により大きく異なります。

コントロールプレミアム

買収で経営権を取得する場合、少数株主持分の評価より高い価格を払うのが通常です。上場企業のTOB事例では、2024年度に公表された案件のプレミアム中央値は**43.3%(対1ヶ月平均株価)**との集計もあり、従来目安とされてきた20〜40%より高い水準で推移しています(2026年7月時点)。なお、東京証券取引所は2025年7月にMBO・支配株主による完全子会社化等に関する上場制度を改正し、プレミアム水準について同種案件との比較に基づく合理性の検討・説明を求めるなど、規律を強化しています。

両調整の適用に関する注意

流動性(非流動性)ディスカウントとコントロールプレミアムは逆方向の調整です。評価対象が「支配権を伴う非上場株式」の場合に両者を機械的に適用すると、調整が相殺・重複して評価をゆがめます。取得する持分の性質(支配持分か少数持分か)と、参照した倍率の性質(市場の少数株主ベースか、M&A取引事例ベースか)に応じて、どの調整が必要かを個別に判断してください。

成長率の差異調整

対象企業の成長率が類似企業群の平均と大きく異なる場合、倍率を調整します。成長率が高ければ倍率を上方に、低ければ下方に調整します。

マルチプル法の限界

  1. 完全に同じ企業は存在しない — 類似企業の選定に主観が入る
  2. 市場環境に左右される — 株式市場が過熱していると倍率も高くなる
  3. 将来の変化を直接反映しない — 過去の実績ベースの評価
  4. データの入手 — 非上場の中小企業同士の取引データは公開されていない

これらの限界を補うために、DCF法とのクロスチェックが重要です。

まとめ

  • マルチプル法は類似企業の倍率を参考に企業価値を算定する手法
  • M&AではEV/EBITDA倍率が事実上の標準指標
  • 類似企業の選定が精度を左右する(3段階の絞り込み)
  • 非上場企業には流動性(非流動性)ディスカウントを考慮(20〜40%は実務上の目安であり案件により異なる)
  • 倍率で算出されるのはEV。株式価値へは「EV − 有利子負債 + 余剰現預金」のブリッジで変換する
  • ValSimではEBITDA倍率法で業種別の標準倍率を自動適用し、企業価値のレンジを表示する

※ 本記事は2026年7月6日に内容を確認・更新しています(筆者は2026年6月24日付で税理士登録)。

※ 本記事およびValSimの各ツールは、概算・教育目的の簡易モデル(固定実効税率30%・業種別の目安倍率等)に基づくものであり、実際のM&A取引価格や正式な株式価値算定の結果とは異なります。記事中の倍率・相場・料率は更新時点の目安であり、個別案件では前提により大きく異なります。実際の意思決定にあたっては、公認会計士・税理士等の専門家にご相談ください。